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    2009年12月31日木曜日

    総括

    この時期はいつも一年を振り返ります。
    おそらく誰もがそうするのでしょうけれども僕の場合は結構しっかり行います。
    毎年モレスキン(モールスキン)に書き込むのですが10頁以上書き込みます。
    1月から色々なことを思い出しながら書くのです一年近く前というのはなかなか思い出せないものです。
    光陰矢の如しと表現し時間の過ぎ行く早さに驚くことが多いのですが、きちんとエピソードを追ってみると意外に多くのことが一年で起きています。
    僕にとってこの物語る行為が人生に大きな意味を占めています。
    記録を残すというよりは思い出す、反省するに近いと思います。
    フッサールは『デカルト的省察』最後にアウグスティヌスを引用します。
    「外にばかりでて行こうとするな。答えは汝の中にある」(正確ではないです)
    この言葉を僕自身も信じています。
    アプリオリ主義と言われるかもしれませんが重要な教訓です。
    このことを信じて来年も突き進みたいと思います。
    そして時折物語りながら反省しようと思います。

    今年もお世話になりました。
    来年もどうぞよろしくお願いもうしあげます。

    2009年12月28日月曜日

    斬新なしりとり

    娘が3歳になりました。
    今日はその誕生日だったのですが、朝、目が覚めた僕の枕元にきて笑顔で「しりとりしよう」と呼びかけてきました。
    少しずつボキャブラリーが豊富になり、なんとなく物事がわかってきた娘はいろいろなことに興味があるようです。
    しりとりの前に、誕生日おめでとうと伝え、早速勝負開始です。

    僕が「りんご」というと娘も「りんご」といいます。
    「りんごだからごだよ」といい、「ゴリラなんかどう」とアイデアを伝えます。
    すると娘は「ゴリラ」と言います。
    そして僕が「らくだ」といい、次は「だだよ」といいます。
    そこで娘は「しらんわー」といって、言葉を諦めます。
    なかなかあり得ない回答に家族で大笑いします。

    この「しらんわー」はまだ言葉がよくわかっていない娘が言うので面白いのですが、しりとりの際に知らないという選択肢があることを僕はしりませんでした。
    娘の頭の中は知らないことばかりで、その反面でいろいろなことに興味があります。
    いろいろなものをさわり、とりあえず訳もわからない単語を使い、日々の学習にいそしんでいます。
    会話においては考えるよりも反応として返ってくるようなものが多いです。
    一旦考えて、答えるという受け答えではなく、ツーといったらカーという感じの受け答えです。
    娘の頭の中で何が起きているのか、娘が観ているものはなんなのか非常に興味があるところです。

    「しらんわー」という言葉が持つ意味は「知らない」なのであり、それが何なのかわからないということです。
    娘は「しらんわー」の意味を十分にわかっていないまま使用していると思います。
    つまり、知らないということ自体を知らないのです。
    なんだかそれは非常に奥深い状態なのだと思いました。
    ソクラテスは「私は何も知らないことを知っている」といい、唯一知っていることは知らないであると言いました。
    しかし、娘は「知らないを知らない」のです。
    この二重否定の状態はは前・哲学の状態であり、おそらくそこに僕らが立ち返れない場所なのだと思います。
    数学的にはマイナスとマイナスを掛け合わせた状態になります。
    そのように考えると純然たるプラスの状況なのかもしれません。

    娘が今いる場所はすごく素敵な場所であり、すべてが正直で、すべてが美しいのだろうなぁと思います。
    これから言語を習得して経験が物語り化されてきます。
    それ以前の記憶は僕らにはハッキリと思い出せないものですので、この前・哲学の状態をしっかりと楽しんでもらいたいと思います。

    父は3歳になってくれたことをこころから幸せに思っています。

    2009年12月20日日曜日

    サンタクロース存在論

    我が家では息子がもの後ごろついた頃からサンタクロースなどいない、あれはお父さんがやっているのだと言うことを伝えています。
    お父さんが仕事して稼いだお金で、普段、家を空けるなどしてあそんであげれない分、子ども達に商品として還元する日なのだと。
    世の中、そんなに都合は良くできていない、まじめに働きなさいと言うメッセージを込めています。

    そんな息子はもうすぐ6歳になるのですが、どうやら本気にサンタクロースの存在を信じているようです。
    確かにお父さんはプレゼントをくれるのだが、別にサンタクロースはいるのではないかという考えのようです。
    それは友達からなどの情報を統合した結果出された彼なりの解釈であるようです。
    プレゼントをくれるとか、くれないとか言った打算的な部分ではなく、単に存在論として彼の中で解釈は進んでいるようなのです。
    これは逆説的に非常にファンタージーなことだと僕は思っています。
    存在を否定すれば、逆にそれを信じることになるのだと。
    また、それとは別に存在を無条件に信じている子ども達はいつか親が嘘をつき続けたことに反発を覚えます。
    夢が終わるという表現をされますが、そんな簡単なものではなく、だまされたのだと思う人もいるでしょう。
    僕の息子の場合は、自分の力でその存在を信じています。
    だますとかだまされるという状況ではなく、個人の解釈でサンタクロースの存在を確立しようとしているのです。
    これについての考察はまだ不十分なのですが、とても不思議な気分になり、僕もどこかサンタクロースの存在を肯定したくなるような気がしてきました。
    つまり、主観的に信じるという認識は存在を作り上げるのです。
    それは真実として、現実として「いる」という存在ではなく、誰かがどこかで見ているという超自我的な存在論に近いと思います。
    息子の超自我はすくすくと育っているようです。

    ガガーリンが人類としてはじめて宇宙に行き、地球に帰還した際にソ連の当時の書記長から電話があり「宇宙に神がいたことは誰にも言わないで欲しい」と依頼されました。
    そして、電話を切ったらすぐにローマ法王から電話があり「宇宙に神がいなかったことを誰にも言わないで欲しい」と依頼されました。
    そんなジョークがあります。
    これは信じるようにという他者的な信仰が持つ逆説を付いたジョークだと思います。
    しかし、自ずから超自我的に作り上げた存在に疑いを持つ必要はあまりないと思います。
    つまり、感じる何かとして信じるのです。

    息子のエピソードをきっかけに何か大切なことを学んだ気がします。

    2009年12月9日水曜日

    突然の電話

    先日、夜に携帯電話のバイブレーションがテーブルの上を振動させました。
    知らない番号で、夜11時だったので、おそらく間違いだろうと思って無視しました。
    妻から普段無視しないのに珍しいね、高校時代の友達からだよと冗談交じりで言われました。
    そして、今日、営業中に同じ番号から電話があり、それも仕事中ということで無視しました。
    外回りで忙しくてかけ直す暇が無く、やっと時間ができて晩ご飯を食べようと京都の第一旭に立ち寄りました。
    するとまた電話がありました。
    急いで出たら、思わず「拒否」の方を押してしまい、すぐにかけ直しました。
    全く誰からかわからないけれど、3度もかけてくると言うことは間違いなく僕への用事だと思い、失礼なことをしたと思いました。

    電話の相手は高校を卒業してから音信不通だったラグビー部の同期でした。
    非常にびっくりして、ラーメン屋の中で小声だった声が大きく弾みました。
    東京の大学に進学して、家業を継ぐために実家である北九州に戻ったと話していました。
    そこでたまたま僕の実家の前を通って、僕の母親に会い、懐かしくなって電話をかけてくれたと言うことでした。
    卒業してからもう13年、憶えてくれていたこともうれしいし、アクセスしてくれたこともうれしかったです。
    実家に返った際はぜひ飲もうという話になりました。
    実際のところ僕はお酒は飲めないので、コーラでお伴することになります。

    家に帰って妻にことことを話したら、ほら高校時代の友達だったといわれました。
    何か神通力があるのでしょうか?
    なんともよくわからないのですが、当てずっぽうでも当たると気色の悪いものです。

    何はともあれ、何ともうれしい友からの連絡でした。
    これからは知らない番号でもすぐに出た方がよいですね。
    間違いなくそうします。

    2009年12月3日木曜日

    『約束された場所で―underground 2』を読んで

    村上春樹のことをこころから尊敬するようになったきっかけは『アンダーグラウンド』を読んだことによります。
    小説家のことをどこか社会から逸脱した人と捉えていたのですが、それは全く逆で社会に真正面からコミットする、それが真の姿なのだと思いました。

    村上春樹の作品は小説であればすべて読みました。
    しかし、『約束された場所で―underground 2』の存在を知らずに、たまたま本屋で見つけてすぐに買いました。
    この作品は小説ではないのですが、先に述べましたように前作に衝撃を受けたのできちんと読まなければなりません。

    ところで、『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた本です。
    そして『約束された場所で―underground 2』はオウム真理教の信者へのインタビューをまとめた本です。
    あの事件からやがて15年が経とうとしています。
    僕が高校2年の時であり、友人達とオウム真理教についていろいろ話し合ったことを覚えています。
    911以降テロリズムを耳にすることは多くなったのですが、それ以前はなかなかテロリズムは僕たちと生活にない言葉でした。
    これから社会について少しずつ足を踏み入れようとしていた高校2年生のときに、かなりの衝撃を受け、あのテロリズムはいったい何だったのだろうと真剣に考えさせられました。
    ただし、何かしらの回答が出たわけでもなく、マスコミが飽きてくると同様に僕の意識からもそれは薄れていきました。

    事件から10年以上が経って、たまたま見つけて読んでみたのが『アンダーグラウンド』でした。
    いやに分厚い本だなぁと言う印象しか持たなかったのですが、読んでみて僕の中に「罪と罰」というテーマが生まれてきたのをハッキリと覚えています。
    『アンダーグラウンド』を読む前年に、ドストエフスキーの『罪と罰』を半分で断念していました。
    しかし、『アンダーグラウンド』を読んですぐに、『罪と罰』を改めて読み直し、重ねて重要なテーマであるという認識をしました。
    そのテーマは今でも継続して考えています。
    そして、今回、『約束された場所で―underground 2』を読んで、まだ深く掘り下げて考える必要性が立ち現れてきました。
    この本の中では「罪と罰」というとらえ方は言葉上ありません。
    村上春樹にとっての重要なテーマはは「悪」の問題です。
    たまたまなのですが、僕が研究しているポール・リクールのテーマも「悪」です。
    すべからく、僕にとっても重要なテーマなのですが、今回の読書で少し何かが見えたような気がします。
    「悪」、「罪と罰」これらはきちんとまとめないといけないと思います。

    高校生の時に受けた衝撃を現実的には思い出せないのですが、それからの物語りをなんとなく構成できています。
    無理矢理なこじつけかもしれませんが、オウムの事件の数々は、今の僕の考えの一つのきっかけになっていると思います。
    そんなこんなを思い出しました。

    2009年11月23日月曜日

    ランドセルを作成する

    来年度、長男が小学校に進学します(進学という表現が何となく変な感じです)。
    それに併せて一般的にはランドセルを購入するわけです。

    革細工を始めてから、息子のランドセルを作成する、それを大きな目標に置いていました。
    しかし、なんだかんだで忙しくなるなどして、いったんは購入する方に流れました。
    ある時、いくつかのランドセルを見る内に何とも言えない違和感に襲われました。
    はじめは単にランドセルのデザインや色が気に入らないと思っていたのですが、それはだんだん自分自身に対する内なる怒りであることに気づきました。
    戦わずして逃げる、そのような感触であり、息子に対する表現を怠ったのだと感じました。
    それを思うようになってから、購入方向にあった息子に対して一緒にランドセルをつくる?と伺いを立てました。
    すると、即答で一緒につくると行ってくれました。
    この瞬間、何とも救われた感じに包まれ、心地よい気分になりました。

    大阪には結構革細工の道具の揃う店があります。
    これまでは東急ハンズやネット販売で道具を購入していたのですが、今回は息子と一緒にどの革がよいかを見に行きました。
    あまり迷うことなく、2人で濃い茶色の革を選び、また、内張はアメブタを選びました。
    不幸なことにランドセルの金具をその店では扱っておらず、唯一?名古屋の店で販売しているのを見つけてそこから購入しました。
    どうやら、ランドセルを自分でつくる人は少ないようで、金具を販売しているところはすごく少ないようでした。

    頭の中で、ランドセルのアイデアを練り、少しずつ作成に近づいてきました。
    手作りとはいえ、あまりにも違った形にすることでいじめにつながると行った危惧をしつつ、きちんとしたランドセルをつくります。
    そのためにも最初のアイデアの段階が非常に重要だと思っています。

    今日やっと、革にパターンを書き込みました。
    もう少し気が充実したらカッティングに入ります。
    僕にとって革細工の最も重要な行程はパターンニングとカッティングであると思っています。
    それまでがうまくいけばプラモデルと同じで、順序よく組み立てるに過ぎません。

    ある程度落ち着いたら息子に縫い作業を手伝ってもらいます。
    自分でつくったランドセルと小学校に通ってもらいます。
    この教育方法にいったいどのような意味があるかは僕自身わかりません。
    少しだけわかるのは買い与えるのではなくつくらせる経験から、ものへの愛着を持って欲しいと言うことです。
    それは人への愛着にもつながると思います。
    また、世界はお金で動くのではなく、自己意思で動くのだと言うことも教えられたらと思います。

    ランドセルが完成したら写真を掲載したいと思います。
    しばらくかかりますが、がんばってみます。

    堀 寛史

    2009年10月28日水曜日

    時計、故障、エンクロージャー

    昨日、手を洗おうと思って腕時計を外しました。
    その瞬間、期せずして時計が落下していきました。
    周りのものにぶつかりながら地面まで落下しました。
    すぐに拾い上げ、テンプが振動しているか耳につけて聴いてみました。
    かちかちかちかち、28800振動の早い鼓動が聞こえてきました。
    良かったと思い、何とも思っておりませんでした。
    しかし、何時だろうと時計を見るとそんな時間ではないはずの時間を針で指し示しています。
    時計を見た時間はだいたい14:30、指し示している時間は13:00でした。
    時計を落下させたのが12:30なので、落下から約30分で故障してしまったわけです。

    かなり焦ってしまい、夕方に時計修理屋に持って行くことにしました。
    阪急電車に乗って一路京都まで出向き、時計修理専門店を目指しました。
    職人さんに渡すとすぐ中をあけて見てくれました。
    幸い、天真が折れているわけでなく、ショックアブソーバーからテンプがずれており、それで止まっているだけでした。
    いったん安堵し、高い修理費用は嫌だなぁと思うながら、どうせ、そろそろオーバーホールに出そうと思っていたので、そのまま修理工場入りさせました。

    せっかくなので、職人さんと少しお話をさせて頂きました。
    僕の時計のムーブメントはETA7750をベースとしたものなので、汎用性の高いパーツが使用されています。
    もし、壊れてもオメガ社からパーツを仕入れて修理できると言うことでした。
    しかし、最近はほとんどの時計メーカーはパーツを修理工へ提供しておらず、すべて自社で修理するようになっているそうです。
    いわゆる囲い込み運動(エンクロージャー)ですね。
    僕の時計はIWCなのですが、リシュモングループに会社が吸収されてからどうようにパーツの提供が無くなったそうです。
    ETAのパーツはまだどうにか手に入るので、おそらくこれからも修理は可能だと言うことでした。

    僕のちっぽけな理念として、できるだけ作り手の顔を見て買い物をしたい、修理をしてもらいたいというものがあります。
    だんだんそれも憧れだけに変わっていくのかもしれません。
    作り手が見えない、欲しい形がないからこそ、革細工を始め自分で鞄や財布を作るようになりました。
    しかし、時計はそうも行きません。
    なんとなく時代が人の手をかくし、人の顔を隠し、ただ単に品物だけを見せ、真贋の有無は単にブランドを信用しろと言ってきているように思えます。
    それにはどうも違和感を覚えるわけですので、今後はどうしたもんかと悩むわけです。
    拝金主義的でない会社をしっかりと見極めて、自分で納得できる買い物をするように努力するしかないのでしょうか。
    何はともあれ、買い手にとっては買い物の意味が単に金銭の交換になっていっているのは確かのようです。
    これはお値打ちだ、だから買おうという判断は少しずつ薄れていくのでしょう。

    僕の時計は自ら落下して、オーバーホールを訴えてきました。
    それ何に長く連れ添っているパートナーが左腕から離れて少し寂しい気分がしています。
    さりながら、彼女(フランス語ではたしか女性名詞だったと思います)の判断は正しかったと思います。
    2週間ほどの別れになりますが、美しくなった姿を楽しみにしばしの別れをこらえるとしましょう。

    2009年10月25日日曜日

    HIROSHIMA

    久しぶりの更新ですが、LD4.orgの活動とはあまり関係がありません。
    完全に個人的な話です。

    家を新築するに当たり、ダイニングチェアを探していました。
    いろいろ観て、座って考えていたのですが、なかなか良いものがありません。
    以前から好きなデザイナーで深澤直人さんがしばらく前に椅子(HIROSHIMA)を発表していました。
    http://item.rakuten.co.jp/plumeart/019-001-049/
    それの実物になかなか出会えなくて、あこがれだけで終わっていました。

    嫁の実家から両親が来阪し、今日戻りました。
    両親を送るために伊丹空港に行き、そのついでにアクタスで家具を観ていました。
    普段はANA側しか行っていなくて、今日初めてJAL側にも店舗があるということを知りました。
    そこで何となく見覚えがある椅子があり、それがHIROSHIMAでした。
    しばらく座ってみて、一度立ち去ったのですが、やっぱり気になってまた座りました。
    座り心地は申し分なく、初めてYチェアに座ったときよりも良い感触を覚えました。
    あんまりにもいじり回す客だったのでしょう、見かねてか店員さんが近寄ってきました。
    その店員さんはどうやら椅子がお好き、しばらく話し込みました。
    僕がかなり椅子好きだとわかり、欲しいという意思を示したら、向こうから値引きを提案してきました。
    結局2脚買うことで20%ほどまけていただきました。
    一脚は展示されているものを持って帰り、早速我が家の一員としました。
    もう一脚は家ができあがり次第届けてもらうつもりです。
    といっても、家ができあがるのは来年の夏、しばらく先のことです。

    良い椅子は生活を変えてくれます。
    もともとインドアな人間なので部屋で過ごす時間が多い方だと思います。
    そのようなものにとって椅子の座り心地は至極重要なのです。
    スカンジナビアの椅子が座りやすいのは冬の間、外に出れられずに家でじっとしていなければならないからです。
    僕自身それに共感を覚えます(ただのインドアですが)。
    今回買った椅子は深澤さんが打倒Yチェア、セブンチェアな意気込みがあるそうなので、かなりの自信作のようです。
    実際に座り心地はすばらしく、たぶんこの椅子に座って年をとっていくのだろうなぁと思います。

    良い買い物でした。

    2009年9月5日土曜日

    秋は忙しい

    忙しいとは心が亡びるという意味なのですが、僕にとって秋から冬にかけ
    て忙しいシーズンとなります。
    端的にしなくてはならないことが多く、それがわかっているのでやりこな
    せるかが不安なのです。

    最近重い腰をあげてやっと論文を書き始めました。
    気が熟していないのか手は進みません。
    不抜けているため集中力が続かずに注意散漫なのです。
    昨年まで研究室が共同部屋かつ学生と教員が集まる場所だったので集中で
    きないとわかっていました。
    しかし今年は環境が違い集中できる条件は整っています。
    そう思うと昨年はできない理由を誰かに押し付けたかったのだなぁと考え
    ていたのでしょう。

    やらなくてはならないことに真正面からきちんと立ち向かう、それはなか
    なか酷なことです。
    自己選択のことであるため余計に逃げ出せず厳しい感じがします。
    楽な行き方をした時代がありそれを後悔して、それが嫌だといのが今の原
    動力なのだと思います。
    後悔先に立たず、常に念頭に置きつつ、万事塞翁が馬だとも思っていま
    す。
    とにかく心が亡びるほど頑張れれば、自分をもっと好きになれるのだと思
    います。

    とにかく前にだけ進んでいきます。
    前を向いて歩きます。

    堀 寛史

    2009年8月5日水曜日

    村上春樹の長編小説を読み終える

    前回、『スプートニクの恋人』と『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』読み終えれば、村上春樹著の長編小説を読み終えるとき書きました。
    その時点で一つ忘れていた小説がありました。
    それは『国境の南、太陽の西』です。
    これを含めて、全部やっと読み終わりました。
    この夏の目標にしていたのですが、予定よりずっと早く読み終わってしまいました。
    とりつかれるといった感覚なのかもしれませんが、かなりの勢いで読み終えました。

    全体的に、悲しみが漂っており僕の好きな作品ばかりだったと思います。
    手放しにすべて好きというわけではなく、段階をつけられる感じですが、今は読み終わった余韻に浸っているため、冷静にどれが良くて、どれが悪いという批評ができない感じです。
    すべて、読み終わりの際に少し泣きたくなるような感覚に襲われました。
    確かに『羊をめぐる冒険』を読み終えたときは涙があふれ出してきて、妙な気分になりました。
    僕たちの根底に流れている生きている辛さ、あるいは生きている喜び(意味)を基本的には表現していたのだと思っています。

    すべて読み終わって燃え尽き感があり、次から何を読もうかと迷っています。
    ためている本はたくさんあるのですが、読書によって感情を揺さぶられることを期待しているために何でも良いと行った感じになれません。
    本来なら専門の哲学書を読むべき時期にいているのだと思います。
    覚悟を決める時期、そう考えて行くべきなのでしょう。

    やることはやった。
    次は何をすべきなのか。
    自分のしたかったことをし終えて、今はそんなことを考えています。

    堀 寛史

    2009年7月22日水曜日

    村上春樹にはまってみる

    今年は僕にとって村上春樹イヤーのようです。
    『ねじまき鳥クロニクル』、『1Q84』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』を他の読書の間に読み上げました。
    明日から『羊をめぐる冒険』を読み始めるつもりです。
    夏中に『ダンス・ダンス・ダンス』、『スプートニクの恋人』を読めば、一通り長編小説は読み上げたことになります。
    それをこの夏の目標にしています。

    これまで僕にとって村上春樹はしかるべきに時に読んで、何かしらの示唆を与えてくれる作家でした。
    しかし、出し惜しみせずに一気に読み切ってしまってその後のことは考えようと思うようになりました。
    欲望に駆られてそれに突き進むような感じです。
    他の人にとってそれをどう思われようとあまり関係なく、単にしたいからする、それなのでしょう。

    では、なぜそのようにむさぼっているのかを考えてみます。
    僕は村上春樹の書く物語の中の根底にある悲しみが好きです。
    悲しみという感情は僕にとっても重要な感情で、それを探しながら生きている感じすらしています。
    その理由は定かではないのですが、喜びや楽しみよりも十全たる悲しみを追い求めています。
    とはいえ、悲しみに浸りたいとか悲しい目に遭いたいと思っているわけではなく、自分の中になる悲しみの感情の根底が何かを知りたいと思っているからなのだと思っています。
    幼少期の悲しみや青春期の後悔、いろいろなものによって僕は作り上げられています。
    つまり、僕自身が僕自身であるエッセンスをしろうとしている営みなのだと思います。
    その助けになるのが僕にとっての村上春樹小説です。

    おおかた読み終わった後に僕がどのように思うのか。
    それを知るための夏になりそうです。
    それが終わったら博士論文を書こうと思います。

    堀 寛史

    2009年7月10日金曜日

    Stay hungry, stay foolish.

    Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ。馬鹿であれ)
    アップル社のスティーブ・ジョブ氏がスタンフォード大学の卒業記念式典でスピーチした際に、スピーチを占めた言葉です。
    この講演は一部で「伝説」と呼ばれているわけですが、僕は何よりも最後の Stay hungry, stay foolish.に心を打たれました。
    言葉自体は一見、馬鹿にするようなものなのですが、逆説的には何かを求める根本的な思想をしめすものであり、また、姿勢でもあります。

    僕たちの生活の中で、何かに満足してしまえば、何かに恥を感じ、それを思い続けたのなら、大きな一歩は踏み出せなくなります。
    それでよいと思う人もいるでしょうけれども、目の前にある広がった可能性を閉ざした人生を僕自身は望みません。
    誰かのためにだとか、自己実現だとかいったものでもありません。
    今ここに自分がいる理由をハッキリとさせるための思想であり、姿勢が僕にとってのStay hungry, stay foolishだと思います。

    前回のブログで幸福論について書きました。
    一つところに落ち着いてしまうことで満足する人のことも何となく理解するのですが、僕自身は貪欲に何かを求め、そして満たし、生き続ける人生を選びたいと思います。
    学習をデザインする、その根本もこのStay hungry, stay foolishにある気がします。
    少し長いスピーチですがぜひ見ていただくとその意味がわかると思います。

    堀 寛史


    2009年7月7日火曜日

    幸福論

    授業で2回生に幸福について尋ねました。
    幸福とは何か、あなたは今、幸福か?
    少々哲学的な問いかもしれませんが、その答えが楽しみで聞いた見たのです。
    そこで帰ってきた回答に興味をそそられました。
    「普通が幸せ」、「今のままで十分」、あるいは多くの学生が「今幸せ」だと答えました。
    この回答に正直驚きました。
    自分自身の学生時代を振り返り、もちろん今もそうですが、常に幸福とは何かを問い、それを追い求めていると思っています。
    メーテルリンクの『青い鳥』の結論にいたるまでもなく、幸福には答えは出せないものだという感覚的な回答も持ってはいます。
    しかし、今十分幸せだという感覚ならば、僕が発した問いはそもそも彼らにとって問いにならないことといえます。

    数名は少し不幸だと答えました。
    その理由を聞いてみたら「前に授業で怒られたから」だと答えました。
    これにも驚きました。
    全体的に物語がないからです。
    もちろんきちんと彼らと話せばそれなりの物語があるのはわかっていますが、何となく時間軸が違うのかなぁと思いました。

    また、彼らの普段の行動を逆手にとって考えてみると、例えば髪型や服装や態度は世間に対する反抗であり、直接的な目的は異性の意識を引くことであると思われます。
    彼らの格好や態度に現状に対する評価や可能性を見いだしてほしいというメッセージがあるのだと思うのですが、幸福な状態でそれは必要なのでしょうか?
    彼らにそう問うてみたところ、回答に苦慮していました。
    誰かがやっているからそのように装い、そのように行為する、これが彼らの価値観なのでしょうか?
    もしそうだとすると僕にとって彼らの存在意義は不幸であると見えるのです。

    実際に、現代社会は意味がわからない犯罪が増え、交通事故の6倍くらいの人が自殺します。
    不安定、不透明な社会であり、それは不安を惹起します。
    20世紀初頭は「不安の時代」と呼ばれます。
    それとは現状が違いますが、現代が「幸福の時代」であるとは言うには不十分な気がします。
    しかし、多くの学生が「幸福である」と答えるにはそれなりの理由はあるのでしょう。
    その部分が僕自身には十分つかみ取れない、それがジェネレーションギャップだと言われてしまうとつらいのですが、哲学をやっているものとして解釈に困るのは悔しいのです。

    先日、鷲田清一著『死なないでいる理由』を読みました。
    その中で、幸せとは、幸せのことを考えていないときであると述べていました。
    これは、少なからず幸せについて考えるときは現状に不幸なことがあり、こうなったらいいなぁと願望することなので、その時点では幸せであるといえないとした、逆説的な定義です。
    僕はこの定義が非常にすっきり入ってくるのですが、今日彼らの意見を聞いてみて、確かにそうであるが、幸せを熟慮した人にこそ、この定義はしっかりと当てはまるのではないかと思うのです。
    いろいろあったけど、そのときに比べるとずっといい、そんな感覚が欠落してしまうと、相対的な幸福論は根底から覆るような気がします。
    もちろん彼らの幸福論は絶対的な幸福論なのかもしれません。
    現状が安定しているのだから、無理矢理不安定にする必要はないのだと。
    心理学で言うアトラクターの理論からも確かに安定している状態は少なからず幸福なのですが、安定は長く続くとはかぎりません。
    不安定に対する対策を十分に立ているから安定が保たれるのです。
    現状の満足は準備を怠らせてしまう。
    そのように思うのです。

    長くなりましたが、結論を言えば、幅広く幸福論を展開しておくことで、他者の理解が広がると考えるのです。
    じっと静まっておく人も幸福であり、常に動いている人も幸福である。
    そう考える思考の広さが必要なのだと思います。
    僕自身、彼らの幸福論を十分消化できていないと言うことは、十分な幸福論にいたっていないのでしょうね。
    その意味では彼らとの対話に僕自身にとっては十分な意味があったのだと思います。
    とはいえ、まだ、消化不良です・・・・。

    2009年6月17日水曜日

    ぐるりのこと。

    橋口亮輔監督の『ぐるりのこと。』を見ました。
    以前から気になっていた作品でしたし、橋口亮輔の前作『ハッシュ』は僕の中の重要な映画と位置づけられているものでした。
    ですので、レンタルショップに久しぶりに行って貸し出しがあるのを見てすぐに見ようと思いました。

    特別でない人たちが、特別でないことをする映画が好きです。
    この映画はまさにそれでした。
    私たち誰にでもあるであろう苦悩を抱え、それでも一生懸命生きている。
    時として、苦しみに耐えられないので誰かに寄り添おうと思う。
    その寄り添おうと思った人を頼りにし、ずっと一緒にいる。
    もちろん人生には波風は立つもの、そして寄り添っている人にも同様に波風はたつ。
    ときに心底お互いに支え合い、倒れないようにがんばってみる。
    夫婦とはそんな物語りを共有しているのだと思います。

    人を好きでいるというのは道具的な価値や快楽の共有という意味がもちろんあると思うのですが、それ以上にただ一緒にいることができるとういうことが最も重要だと思います。
    その人自身の存在を認め、物語りを共有し、自分のようにその人のことを思うようになる。
    自己自身にとっては他者なのだけれども、境界をもった他者ではなく、自分が外に飛び出ているような存在で、おそらく視線は共有している。
    同じように感じ、もちろんそれは確認できないのだけれども、きっと共有は勘違いではないだろうと思えるようになる。
    夫婦のそんな姿をこの映画で見て、僕自身の夫婦生活についても改めてそのような視線で見つめ直してみました。
    結局のところ何かを共有するという行為や認識が夫婦には必要なのだと思います。
    そしてそれが勘違いであっても何となく確信が持てる気がする、それが大切なのだと思います。

    結婚する前とした後ではこの映画の感想は違うと思いました。
    殺伐とした不安定な時代ですが、結婚っていいなぁと思えました。

    堀 寛史

    2009年6月16日火曜日

    『1Q84』について村上氏が語ったこと

    村上氏が読売新聞のインタビューで答えたことで、心に響くフレーズがありました。

    >村上氏は、「大事なのは売れる数でなく、届き方だ」と強調し、「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えて いる」「インターネットで『意見』があふれ返っている時代だからこそ、『物語』は余計に力を持たなくてはならない」などと持論を述べた。

    この言葉の力強さに喜びを感じます。
    これはイスラエル賞受賞時のスピーチにも呼応しています。
    また、単純に戦うべき相手をわかっている人であり、書くことの意味を明確にしている人だと思いました。
    今の時代だからこそ何をしなくてはならないのか。
    また、自分自身が何をしなくてはならないのか。
    そのようなことを考えさせられました。

    端的に社会とは人々の意思によって成り立っているのだけれども、その中で自分を位置づけ、やるべきことを認識し、その時々に主となる意味の薄い価値に翻弄されてはならないのだ、そのように聞こえました。
    根本的な倫理観や道徳をどのように考えているのか、それを自分自身に問わなくてはなりません。
    孤独や寂しさ、苦悩、そのようなものをもつ普通の人として何に寄り添い、何に反発すべきなのか。
    私たちは常々、私について考え、社会について考えなくてはならないのだと思います。

    堀 寛史

    2009年6月10日水曜日

    1Q84

    村上春樹著『1Q84)』が上・下巻の合計売り上げが100万部を超したそうです。
    すごい勢いですね。
    僕自身も発売してすぐに購入して、4日ほどで読み上げました。

    村上春樹ファンにとっては待望の新作長編小説だったわけですが、読まれた方はいかがだったでしょうか?
    僕自身にとって初めて主人公の一人(天吾)と自分が同一化できなかった小説でした。
    村上春樹の長編小説ではいつも自分自身のことのように読むことができます。
    僕にとっては『ねじまき鳥クロニクル』は自分のことと完全に同一化してしまい、しばらく心が締め付けられて、苦しい思いをしました。
    『ノルウエイの森』でもかなり深く同一化して、内容と言うより映像が自分の経験だったかのように脳裏に焼き付いています。
    しかし、今回の天吾に関しては明らかに自分と違っており、同一化ができませんでした。
    青豆に関しても女性であるという理由以外でもいまいち同一化できませんでした。
    これがクリティカルポイントになるわけではないのですが、読み終わってから悲しい気持ちになったり、つらい気持ちになったりといった感情は比較的軽く、一気読みした疲れはあるもののさわやかな気持ちでいます。

    村上春樹にとってこの小説が何を意味するのか?
    いくつかの新聞で書評が展開されて解釈が拡散しています。
    どの解釈もおそらく正しいのですが、人の解釈を自分の中に受け入れるとこの小説はさらに面白くなります。

    先日、村上春樹がイスラエル章を受賞した際の講演で「壁と卵」の比喩で戦争や現代について批判しました。
    僕はこの名講演を忘れることができません。
    ラディカルに、センシティブに、自分の言いたいことをハッキリという村上春樹の姿に感銘を覚えて方は少なくないと思います。
    この講演をベースに『1Q84』を読まれるとまた違ったおもしろさがあると思います。

    なにはともあれ村上春樹はすごい。
    それだけは確かです。

    堀 寛史

    2009年6月8日月曜日

    携帯電話の話

    昨晩、飲食店で食事をしていました。
    そのときに近くの席の女性が携帯電話をテープルの上に置いて手を素早く動かしていました。
    少しして手話をしているのがわかったのですが、その女性の同席者は彼女を見ていません。
    よくよく見てみると女性は携帯電話に向かって手を動かしていたのです。
    おそらくテレビ電話を使用して会話をしていたのだと思います。
    この光景を見て、携帯電話の可能性を強く感じました。

    以前、僕が担当していた人はメールでやりとりをしていました。
    DocomoがiModeを開発してからコミュニケーションがずいぶん変わったと。
    テレビ電話はそれからもう一歩進んでアクチュアルなコミュニケーションが可能となっているのです。
    テレビ電話が開発された当初はこんなの誰も使わないだろうと思ったのですが、十分その価値はあるのだなぁと思いました。

    2009年5月21日木曜日

    1週間の大学閉鎖

    現在、1週間の大学閉鎖中です。
    ですが、職員であるので大学にきていろいろたまった仕事をしています。
    仕事をしていますとうそぶいてみたものの実際は本を読んだり、掃除をしたりと比較的好きなことをさせてもらっています。
    不謹慎なのはわかっていますが、突然の休みもいいものだなぁと心の底では思っています。
    時間がないとなかなか読めない本を少しずつ読み進めて、頭の中に貯蓄していかなくてはなりません。
    そんなこんなで時間を過ごしています。

    堀 寛史

    2009年5月10日日曜日

    自転車に乗る練習

    子供が自転車に乗る練習をしています。
    補助輪を外してバランス良く乗る練習です。
    自転車に乗ることが当たり前になってしまうとなぜ乗れなかったのかがわ
    からなくなります。
    このことを身体・脳機能的な説明はさておき、経験論的にいえば、思い出
    せない現象であると言えます。
    当たり前とは前のことが思い出せなくなることと言えるのです。
    自分のことであったはずなのに全く他人事のようになる。
    また、他人もできて当たり前だと思うようになる、そんなことをよく経験
    します。

    ある瞬間に突然、自転車に乗れるようになります。
    うまくはなくとも前に進めるようになります。
    これを昔からコツと表現します。
    コツを掴めば今度は乗れないことの方が「できないこと」になります。
    人生における不思議な現象です。

    このコツはなかなか人に教えることができません。
    自ら学び、掴み、ものにしなくてはなりません。
    生涯失わない大切な経験です。
    人生にはそんな瞬間が多く待っているのですね。
    子供からそれを強く学びました。
    いい日曜日です。

    堀 寛史

    2009年5月1日金曜日

    35年前の新聞

    実家で兄が生まれた時から保管していた新聞を見せてもらいました。
    その中に興味深い記事を見つけました。
    大学生の登校拒否について書かれてある記事でした。
    登校拒否とは現代を代表する現象だと思っていたのですが35年前に
    すでに社会問題化していたことがわかりました。
    原因も特別今とかわりない内容でした。
    楽しくない、打ち解けられない、そう言った他者との関係性が起因してい
    るようです。
    これは今もかわりありません。
    社会は大きく変化しているようですが実のところそんなに変わっておら
    ず、さらに問題解決ができずにいるのだなぁと思いました。
    何だか少し安心しました。僕らはそんな簡単に変わらないのです。
    つまり取り組まなければならない問題はかわらないのですから焦らなくて
    良いのです。
    ゆっくりと確実に進むしかないと思います。

    堀寛史

    2009年4月30日木曜日

    移動・移動・移動

    昨日から移動ばかりです。
    大阪→甲府、今日は甲府→東京→北九州と飛び回ってます。
    今日は飛行機までの時間を利用して六本木ヒルズに行ってきました。
    森美術館での展示に行ってきました。
    思ったほどではなかったですがいくつかインスピレーションを受けまし
    た。
    でも今はインスピレーションより疲労感にのしかかられてます。
    ゆっくりやすみたいです。
    そんな時に限ってなかなか寝れなかったりします。
    そういえば昼ごはんを食べてませんでした。
    これから食事に出ます。
    では。

    堀 寛史

    2009年4月26日日曜日

    人の成長過程

    大学教員をしていますとある学生の1~4年間の変化を追うことができます。
    3月に卒業生を出し、4月に入学者を受け入れるわけですが、でるものとはいるものの違い、主に何について成長したのだろうかを考えさせられます。

    昨日、1年生の新人歓迎会を学科で行いました。
    学科教員も大半が出席し、お互いの認識を広めようと交流したのです。
    そこで、毎年どの教員も口をそろえて新入生の態度について苦言を呈します。
    端的に「なっていない」と。
    そして、医療職はこんな態度ではいけないという伝家の宝刀を抜きます。
    毎年恒例の事件であると思うのです。

    この新人歓迎会の前日に2年生の授業を行っていた僕は2年生に対して「態度が良くなったね」という話をしたばかりでした。
    1年間の成長を十分に感じるほど人の話を聴き、敬語を話し、表情が良くなったと。
    社会一般では、当たり前と思われるようなことなのですが、実のところなかなか簡単にできないものなのです。
    そして、教育の場ではそれを見逃してはいけないのですし、時には苦言を呈しながらも指導しなくてはならないのです。
    その結果が2年生の態度であったと思います。

    面白いもので、1年生の対応のために3年生を呼んで話をしてもらったのですが、話をした3年生も教員と同じように態度がなっていないといいます。
    教員からすれば、君らもなっていなかったよと笑い話として3年生と話しました。
    さらに、僕自身の過去を知る人がいれば、君こそなってなかったよと言われるのだと思います。
    過去の自分の態度をわざわざ顧みる必要はないのですが、人は成長する(正確には社会に適用する
    )のだということがわかった気がします。

    社会において、不快な態度をとらないことは関係性におけるリスク管理であるといえます。
    また、態度を悪くすると言うことの裏には甘えがあるのです。
    つまり、このような態度をとっても許してもらえるという期待です。
    社会はその期待を裏切ってくれます。
    そのことを教育の現場では教えてあげなければいけません(教育の場ではなく大人が見本を見せるという地域的なところでも同様のことが言えるでしょう)。
    僕の場合は子どもの教育においてもヒエラルキーをハッキリとさせ、親に対して敬語を話すように指導します。
    厳しいと思われるかもしれませんが、社会に出るときにそれができるできないで子どもの人生が左右されるのです。
    子どものことをほんとうに愛しているのならばルールを教え、できるようにしてあげなければならないのです。
    それを広げて、学生を愛しているのならば、社会に出られるような姿にしてあげなければならないのです。
    それが教員にとっての重要な仕事だと思います。

    今の1年生が数年後に「今回の1年生はなってないなぁ」と嘯く日が楽しみです。

    堀 寛史

    2009年4月5日日曜日

    『現代思想』を手にとって

    現代思想』を本屋で久しぶりに手に取ってみました。
    驚くことに宮本省三氏が連載をはじめられていました。
    以前、リハビリテーションが特集されたとき、またはメルロ=ポンティの特集の際に宮本氏が書かれていたことは知っていたのですが、連載をはじめられると言うことはすごいことだと単純に感服しました。
    『現代思想』はその名の通り思想について書かれてある雑誌です。
    思想というと代表的な学問は哲学です。
    僕は哲学系研究者ですから、たまに『現代思想』に目を通していました。
    また、哲学系のところで文章を書くことは結構大変なことであることも知っています。
    哲学の考え方の根底には(カント的)批判があると思います。
    ですので、書いた文章には批判がつきまといます。
    それをもとに考察は熟成されていくのですが、言葉で言うようには簡単でないのです。
    それ故に、『現代思想』で連載を持つことは非常にすばらしいことだと思うのです。

    僕自身、宮本氏のことを知りませんが、僕のPTとしての師が以前宮本氏のもとで働かれていました。
    ですので、情報は耳年増(女性ではないですが)で、宮本氏本人について書くことをはばかります。
    書くべきは、理学療法士の進出に広がりを見せたことだと思います。
    理学療法は科学を標榜しており、哲学とは違うカテゴリーにいます。
    理学療法は科学であるのでしょうけれども、学問であるとは少し言い難いと思っています。
    技術を主体にした行為者であり、学としての体系化は不十分であるのです。
    しかし、哲学などの古い学問は体系化がされており、門外漢をなかなか入れないような状況があります。
    そのような中に、理学療法が切り込んでいくことに感銘を受けました。
    もちろん、宮本氏が哲学について言及しているのではなく、身体について自身の見解を述べられ、結果、哲学系の人に受け入れられるという現状だと思うのですが、何はともあれすごいと思います。
    (学問的にどちらかが優れていると言うことではなく、カテゴリーが違うところで戦う難しさを書きたいのです)

    理学療法「学」がどこを目指しているのかはよくわかりません。
    しかし、今回の流れは理学療法士にとって重要だと考えます。
    影ながらに応援しようと思います。

    堀 寛史




    事務局の移転

    事務局を移転します。
    といっても、佐伯研究室から堀研究室への15mほどの移転です。
    移転にともない管理用のMacが変わり、HomePageなどの感じが変わると思います。
    これまで管理Macは佐伯研究室にあり、管理は堀が行っていたために、更新などに遅れが生じておりました。
    また、情報も十分にご提供できずにいました。
    その改善目的が第1です。
    さらに4月になりLd4のメンバーが増え、その紹介などを行っていきたいと思います。

    広報の充実と管理の充実を行うための移転です。
    今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

    堀 寛史

    2009年3月30日月曜日

    引越し


    4月になると新学期が始まります。
    年度が変わるたびに出会いと別れがあります。
    大学でも4月には人事の異動があり、人の行き来があります。
    それに併せて、現在大学内は研究室の引越しがどこそこで行われています。
    僕も研究室を引越しました。

    普段研究室にいても荷物の多さに気づかないのですが、引越しとなるとどこからか荷物があふれてきます。
    部屋から部屋の移動であれば移動距離が短いのでそんなに苦労はしないのですが、よくもまぁこんなに荷物をため込んだなぁと感じます。
    紙でできたものの多さは格別です。
    本に書類、これだけでどれくらいの重量があるのでしょうか?
    僕の性分で本は良く読む方なのですが、その後捨てることができません。
    蓄積できるだけ蓄積されます。
    結婚して、引越しをする際に妻との協議の結果、かなりの本を処分したのですが、今となってはそれよりも本があふれています。
    幸い、家の中ではなく大学のなかでのあふれかえりなので、妻には迷惑をかけていませんが。

    今日は、夕方から佐伯と一緒に本棚作りをしました。
    2×4の木材を買ってきて、オリジナルの本棚を作りました(仲良しの建築家に教わった方法です)。
    2500円程度で結構良い本棚ができました。
    結構良い感じです。

    引越しに際して荷物は処分すべきなのでしょう。
    それを切に感じました。
    しかし、結果的にほとんど処理できませんでした。
    次の引越しの際にはちゃんと捨てようと思います。
    捨てるのも技術です。
    僕にそれは備わっていないようです。

    堀 寛史

    2009年3月21日土曜日

    “はじめの一歩” 阪奈会場での研修が終わって

    阪奈会場での研修会が終了しました。
    今回、2会場で開催するという初めての試みを行ってみました。
    阪奈中央リハビリテーション専門学校の卒業生を中心に35名の参加者でした。
    講義→実技→講義の順番で進んで、9時から16時までみっちりとした研修だったと思います。
    参加される方にとってはなかなかしんどいスケジュールだと思いますが、LD4の考える研修会はへとへとに疲れてしまうというスタイルです。
    頭も体も疲れてしまって家に帰ってからすぐに布団にはいるくらいの密度がちょうど良いと考えています。
    ちょっとサディスティックですが運営側も結構疲れ切ってしまうぐらい準備しますし、力を入れて話をします。
    その熱がみなさんに伝わっているかどうかは正直なところ不明確ですが、伝わっていただけることを切に望んでいます。

    明日は今日の反省点を踏まえて内容をブラッシュアップして提供する予定です。
    これから追加資料を作ろうと思います。

    堀 寛史

    2009年3月17日火曜日

    蓮華王院 三十三間堂


    週末に三十三間堂に行ってきました。
    品種は分かりませんが桜が咲いており、また暖かい日で何とも風情のある日曜日でした。
    三十三間堂についてほとんど予備知識が無く、どんなところであるかを知りませんでした。
    しかし、行ってみて非常に驚きました。
    1001体の千手観音像と神々の像が飾られておりました。
    ほとんどが国宝で価値ある展示?でした。
    考えてみたらこれらは1000年近く前に作られたものであり、それがずっと保存されているというのはものすごいことだと思います。
    たとえば、ルネッサンス期の芸術作品がヨーロッパでは貴重であるとされますが、それよりもずっと古く、また保存状態もよいのです。
    さらに、元々あった場所にずっと保存されていると云うことは日本が侵略されず、平和であった期間が長かったことを物語っていると思います。
    日本人が誇るべき歴史がそこにあり、それをかいま見れたことに非常に興奮しました。
    皆さんも是非訪れるべき場所だと思いますよ。

    堀 寛史

    2009年3月15日日曜日

    卒業式 → 謝恩会


    先週金曜日は大学の2期生の卒業式でした。
    僕が大学に赴任したのと同時に入学した学年で、最初に担任になった学年(1~3回生)でした。
    早いものであれから4年、ともに歩んだ学年であったといえます。
    卒業式の後、各教員が学生に一言言葉を贈ります。
    今年は涙と言うより笑いに包まれた感じで幕を閉じました。

    夕方から夜にかけて、梅田で謝恩会が開かれました。
    教員は招かれるという形で参加し、非常にゆったりとした時間を過ごせます。
    会が終わりに差し迫ったときにゼミ(痛みゼミ2007と国試のメンバー)が僕のところに来てくれてプレゼントをいただきました。
    他の教員を見渡すと花束と色紙を手に持っています。
    しかし、僕のゼミの学生はそれをもっていません。
    そして、花束や色紙の代わりにいただいたのが、写真でアップしている「探偵!ナイトスクープ」のDVDでした。
    学生が話し合って、僕に花束や色紙を渡しても大して喜ばないだろう、では何を渡すべきか、そのように悩んでいただけたようです。
    そして、これしかないと決めてくれたのが、DVDだったと言うことでした。
    これには僕のツボを突かれた感じがしました。
    「粋な」プレゼントで、これ以上にトンチの効いたものは無いと言えます。
    ちょうどその日の朝、妻に「花束をもらったらどこにかざろう」と話していたのでした。
    実利主義で、現実主義な僕はおセンチな建て前を好みません。
    もちろんもらえばうれしいのですが、それは時間とともに風化する気がするのです。
    しかし、今回のプレゼントは僕の心にしっかりと刻み込まれました。
    見事の一言で片付けられないために、ここで感想を書きました。

    1年半のゼミを通して学生が僕を見、そして、デザインしてくれたのだなぁと思うと感動します。
    スタンダードではないアプローチ、デザインの重要な要素だと思います。
    それをゼミの学生に教えられた気がします。
    そのことを含めて心より御礼申し上げます。

    堀 寛史

    2009年3月12日木曜日

    2009年 第1回 研修会 “はじめの一歩” に向けて


    3月21日と22日に研修会を開催いたします。
    今回は初めて、2会場に分けて研修会を行います。
    2日間で同様の内容を行います。
    会場を2つに分けるのは研究会の裾野を広げて、より多くの方に私たちの活動を知っていただき、参加していただくためです。
    今年は特に新人教育にスポットを当てたいと考えています。
    それには参加費を安くし、回数を増やし、より多くの方に参加いただき、知識のベース作りを促す必要があります。
    できるだけ、情報を早めに提供してみなさんのスケジューリングができやすいように心がけたいと思います。
    ちなみに、次回は5月中旬を予定しております。
    内容は「リスク管理」です。

    私たちLD4は常々、魔法の技を売るのではなく、自ら考え評価に基づいた治療を展開できるセラピストの育成を目指しています。
    そのようなセラピストを育てるには一朝一夕では無理なわけです。
    かといって私たちの開催する研修会に参加すれば理想とするセラピストになれるわけでもありません。
    大切なのは自ら学ぼうとする意志と自ら問いかけようとする姿勢だと思います。
    私たちLD4は意志と問いにスポットを当て、学習をデザインするための方法をどうにか模索してみなさんに提供していきたいと考えております。

    まだ、私たちも手探りです。
    みなさんと一緒に成長させていただけたらと思います。

    堀 寛史



    2009年3月11日水曜日

    振り出しに戻る感覚

    「4月になれば、また振り出しに戻るんだね」
    同僚がそういいました。
    4月は年度の始まりで、私たち大学教員にとっては新学期の始まりであり、新入生が入ってくるのです。
    新しいと言えば新しいのですが、私たちの生活を行為で捉えると1年をぐるぐる回って同じことをしている感覚を受けるというのです。
    確かにその感覚を私も受けます。
    どこかをぐるぐる回っていて、気づいたら同じところに帰ってくる。
    これには変化がないことの退屈さと逆にかわらないことへの安心感の両方がそなわっています。
    良くも悪くもかわらない、よくよく考えてもこれは幸か不幸のどちらかだとすれば、幸の方なのだと思います。

    ただ、人生が変化しないと言うことは実際にはあり得ないわけです。
    そのように感じることはあっても私たちを取り囲む世界や私自身の身体、私の経験は常に変化しています。
    変化を拒否しようとしても必ず何かがかわっているのです。
    振り出しに戻る感覚は単に4月がくるという社会的な事実(地球の公転につくられる)に過ぎません。
    この感覚はどうやら日本独特の感覚だったようです。
    特にキリスト教圏での時間は生まれてから死ぬまでの一直線的なものだそうです。
    しかし、日本はどこかぐるぐる回っている感覚を持った文化の中で時間が過ぎていくために、時間感覚に関してはおおらかであるそうです。
    そのために日本人にとって大切なのは「今=ここ」の感覚だそうです。
    過去や未来が重要なのではなく、この瞬間が大切なのだそうです。
    良くも悪くもその影響はそこかしこで感じることができます。
    特に昨今の日本の政治はそれを色濃く反映していると言えます。
    不況なんかはどうにかなる、それよりも「今=ここ」で自分の体裁を取り繕わなければ!
    麻生にしろ、小沢氏にしろ「今=ここ」の感覚をネガティブに使っていると思います。
    おおらかと無関心はおそらく同意語で、今の政治は無関心にほかならないと思っています。

    日本人だから仕方がないこの時間感覚なのかもしれませんが、変化の確かさを感じつつ、前に進んでいく努力は怠らないようにしたいと考えます。
    また、日々の変化を感じつつ、おおらかに自分の身体や精神の変化についても引き受けていきたいです。

    堀 寛史

    2009年3月6日金曜日

    久しぶりの梅田

    大学が開催した臨床実習指導者会議のために久しぶりに梅田に行きました。
    行きがけは雨に降られ足下の悪い中でしたが、帰る頃にはすっかり雨は上がり、夜空に星が見えていました。

    当たり前ですが梅田は人が多くて、人酔いしてしまいます。
    初めて梅田を訪れたときはきっと今日は祭りの日なんだと本気に思っていました。
    しかし、あれは通常の姿で、何ら特別ではないと気づいてからはせわしないところだなぁと思うばかりです。
    個人的に買い物等は梅田方向ではなく、京都に赴くことが多いです。
    梅田を訪れるのはほとんど仕事の時ぐらいで、今日もまさにそれでした。

    梅田は現在、建設ラッシュでどこ彼処でビルが建とうとしています。
    ほとんど鉄骨の建物でコンクリートは打たないようです。
    コンクリートを打てば、それが乾くのを待たなくてはいけないでしょうから都市建設はもっぱら鉄骨造のようです。
    数年後の梅田は大阪駅を中心に高層建築が立ち並ぶようです。
    そんなに地盤が強いところではないでしょうから少し心配です。
    (もともと埋め立て地なので埋田:梅田というそうです)

    いろいろなことを考え、人の波にもまれ、久しぶりに都市を感じてきました。
    都市はわりと好きな方なので、どこか座れるところがあったらゆっくりします。
    大多数の中で一人になる感覚は不思議と落ち着くのです。
    こんなに人がいるのに僕はその中の誰も知らない感覚です。
    逆に、こんなに人に囲まれているのに誰も僕を知らない、この感覚は僕にとっては特殊なのです。
    ですから、どこかに移る自分の姿を見てときどきびっくりします。
    僕自身ですら僕のことを忘れているからです。
    都市は僕にそんな感覚を与えてくれます。
    ただ、知っているところにいるよりは疲れてしまうし、目的がない限りは行くことがないので、そうしょっちゅうということはありません。
    それがまた良いのでしょう。

    次に梅田に行くのは卒業式の後の謝恩会です。
    どこかでゆっくりできたらいいなぁと思います。

    堀 寛史

    2009年3月4日水曜日

    オートバイと脳機能の関係

    オートバイ運転で脳の機能向上、ストレス軽減も――川島教授とヤマハ発の研究
    上記の記事を見つけて少しうれしくなりました。

    原付時代から考えますと14年近くバイクに乗っています。
    危険と隣り合わせだと言われ、爽快感以外はマイナス面のようにとらわれてきました。
    しかし、今後は脳機能向上のために乗っているんだとエバって言えるようです。

    通勤などでできるかぎりバイクを試用すれば渋滞の緩和、駐車場問題、エネルギー問題のすべてが良い方向に向かうと思います。
    (個人的には一人の通勤でエルグランドなどに乗っている人を見ると不思議な気持ちになります)
    もちろん事故の多さが懸念されますが、事前にプロテクター着用などを義務づければだいぶ緩和するのではないでしょうか?
    さらに、脳のリフレッシュになるとなれば一石二鳥です。

    単にバイクが好きなものの戯れ言かもしれませんが、バイクは良いですよ!
    これからの季節はバイクが最適だと思います(花粉症対策にレスプロのマスクがおすすめです)。

    堀 寛史

    2009年2月27日金曜日

    単位取得退学

    大学院博士後期課程では単位取得退学という退学方法があります。
    簡単に言えば、博士論文を提出することなく大学を去るという形です。
    大学によって多少違いがあるかもしれませんが、博士後期課程で取得しなければならない単位は博士論文をいれて12単位です。
    3年間で12単位という数は、ずいぶん少ないのです。
    学部でしたら4年間で128単位、修士だと2年間で30単位が一般的です。

    博士後期課程は博士論文を書くために在学するためにゼミ単位や授業単位が重要なのではなく、結果的に博士論文がかけることがポイントとなります。
    しかし、この博士論文は所属する研究室や分野によってもずいぶん差があるようです。
    例えば、工学系ですと在学者の50%程度が博士号を取得するのですが、文学系ですと7%しか博士号がとれない現状があります。
    文学系に関して言えば7%でも多くなってきたのです。
    関東の有名私立大学では未だに博士号を出さないそうです。
    私は文化系(哲学)に所属しています。

    私が所属する研究室でも、「博士号よりも重要な学会で発表し、論文掲載されるほうが価値がある」といった考え方もされています。
    かといって博士号を出さないわけではないのです。

    かつて「末は博士か大臣か」と言われた時代があります。
    昔は文字通り大臣になるくらい博士号を取得することが難しかったようです。
    大学で教鞭をふるい、定年し退官するときに、学位(博士号)を授与していたそうです。
    ですので、現在の多くの大学で教授職にある人(文化系)でも博士号を保有していないのはそれが理由です。
    私がこれまで指導を受けてきた教員の中でも博士号を取得していた人はおりません。

    単位取得退学から3年の間に博士論文を提出すれば課程博士なれます。
    博士号には甲と乙があり、課程博士が甲、論文博士が乙です。
    ひとによっては学士、修士を持たなくても博士号を持つ人がいます。
    研究や何かいろいろな実績が評価されて学位が授与されるのです。
    例えば、デューク更家さんなんかがそれです。
    しかし、文科省は今後論文博士をなくす方向です。
    ですので、博士号は今後博士課程に進学したもののみが取得できるようになります。
    つまり、博士といえば甲のみになるのですね。

    私は今年度博士予備論文を提出しました。
    これが合格すると博士論文の執筆が許されます。
    博士論文は12万字程度の論文で、意味がある内容(インパクト)でなければなりません。
    その論文執筆を今後行うのですが、その前に単位取得退学を選択することにしました。
    既定にある3年以内ではなく、今年中にでも執筆できればという想いも強いです。

    博士号は「足の裏の米粒」と呼ばれます。
    とらないときもちわるいけれど、とっても食えない(就職できない)からです。
    しかし、がんばってとろうと思います。
    そのためにしっかり論文を書こうと思います。

    とりとめもない文章で失礼いたしました。

    堀 寛史




    2009年2月23日月曜日

    コミュニケーション

    理学療法士(セラピスト)は対象者とコミュニケーションせずして仕事を遂行することはできません。
    この場合、通常は言語的コミュニケーションを指しているように見えます。
    しかし、実際のところ、身体接触を含んだ身体的コミュニケーションも含んでいます。
    あるいは、目線を合わせること、においもコミュニケーションの構成要素と考えられます。
    単に話し上手であってもダメな理由はコミュニケーションがもつ意味によると思われます。

    私が大学教育に携わってやがて4年になります。
    そこでいくつかの課題が見えてきました。
    その一つが良好なコミュニケーションをとるためにはどうするべきかという問いです。
    先に述べましたように、コミュニケーションは単純に会話であるとは言い切れません。
    特に、セラピストのコミュニケーションは身体接触を含み、善し悪しが複雑化します。
    教育の中では、礼儀や話し方のルールを指導はしますが、あまり身体接触に関して触れることをしてきませんでした。
    例えば、検査手技、治療手技におけるさわり方や触診の方法は行うのですが、良いさわり方についてあまり考えてこなかったのが正直な感想です。
    そこで、現在所属している大学では初年度教育の中に、さわる・さわられるとはどういった感覚なのかを実習の中に取り入れることにしました。
    学生自身がこれまで人に触れてきた経験を一つの常識として披露します。
    しかし、常識として触ってみても心地よいさわり方であったり、痛いさわり方であったり、さまざまなさわり方があります。
    それをさわられる方が感じ、感覚を伝えます。
    この経験は言語的コミュニケーションをうまく行おうとする営みと同じものだと考えます。

    コミュニケーションは難しい、それはセラピストになって10年が経過しても常に立ちはだかる課題です。
    それを少しでも軽減するために早い内からコミュニケーションの機会を与える。
    そして、私たち自身もコミュニケーションについて考え直す。
    大学教育の中でそのような経験をしています。

    さわる・さわられる、この関係性についてもっと考えていけたらと思います。

    堀 寛史

    2009年2月10日火曜日

    iPhoneの功罪

    iPhoneを使用し始めて3ヶ月経過します。
    発売当初からものすごくほしくて、衝動が強すぎて購入しました。
    あれから3ヶ月、現在ではiPhoneの無い生活は考えられません。
    使っている人にしかわからない部分はあると思いますが、一言で良さを伝えるとなると「万能」であることにつきます。
    もちろん、不便な部分も多々あるのですが、それ以上に限りない万能感に満足を得ます。
    PCでできることはある程度こなしますし、PCでできないことを数多くこなします。
    いつも持ち歩くものとしての適度な大きさと何よりもその操作性は携帯電話と呼ぶべきではありません。
    これまで使用してきた他の携帯電話はやはり電話でした。
    しかし、iPhoneは電話付きPCと言うべきで、電話やメール以外の使用が僕にとっては多いのです。
    職場や家でPCを使う頻度が少なくなり、iPhoneでこなすことが増えてきました。
    僕のことをよく知る人であればしょっちゅう画面を拭いている姿を目にするでしょう。
    これは端的に使用頻度が増えて、その分、指紋の付く頻度も増えているのです。
    また、一日に一回はかならず充電しなくてはなりません。
    これは不便なのですが、甘んじて受け入れることができています。

    おそらく今後も他の携帯電話に戻ることはないでしょう。
    進歩していくスマートフォンか次世代のiPhoneの登場がない限りこの機種を使用します。
    ですので、iPhoneのマイナスポイントを上げるとすると他の機種に移れずにAppleの思いのままに操作されてしまっていることだと思います。
    その部分も甘んじて受け入れることができます。

    みなさんも仕事や趣味の幅を広げるためにiPhoneに乗り移りませんか?

    堀 寛史

    2009年2月8日日曜日

    ボディートグス

    ボディートグスを購入しました。
    これは下腿に1kg程度の重りをつけて運動量を増やすダイエット機具です。
    アンクルウエイトのように足首に重りをつける機具は多くあるのですが、この商品は下腿全体を包み込むようにして装着するところのポイントがあります。
    装着の感覚としてアンクルウエイトだと脚が慣性によって振り回されるような感覚があるのですが、それがありません。
    ちょっとした締め付け感はあるのですが、フィット感がよく嫌な感じが少ないです。

    ダイエット機具として売られているのですが、僕としては運動不足解消のために買いました。
    常に、先々のことを考えて生きていこうと心がけており、その一環です。
    夜にウォーキングなどをすればよいのでしょうけれども、無精な部分がありボディートグスという選択をしました。
    付け初めてまだ一週間に満たないので効果についてはお知らせできませんが、何か変化があった場合はまた書いてみたいと思います。

    堀 寛史

    2009年2月1日日曜日

    学ぶことの本質とは

    新聞やテレビのニュースを見ますと小学生の学力の論争が繰り広げられております。
    本日の毎日新聞の「発言席」で教育評論家の小宮山氏が書かれていたデータからの考察は非常に興味深いものでした。
    簡単に概略を述べますと東京の小学生と秋田の小学生の比較です。
    東京の小学生は40%近く私立中学校を受験するために、進学塾に通い、秋田の小学生よりも5倍の勉強時間と10倍の学費を使っている。
    しかし、全国統一学力検査の結果を見ますと成績に大きな差はない。
    そのような内容でした。
    私の解釈では、意味のない学習が繰り広げられ、単に経済的な意義のための小学生は犠牲になっていると考えます。

    親としては高額の授業料を支払うので、成績が上がってしかるべきと考えます。
    小学生も自分の時間を割いて勉強しているのだから志望校に進学できてしかるべきだと考えます。
    進学塾は適切な方法論をとっているので、成績が上がってしかるべきだと考えます。
    しかし、結果は常に付いてくることはないのです。
    総合的には悪循環がここにはあり、誰もが苦しんでいるのです。

    小学生に必要なのは問いをたてる方法を教えることだと思います。
    学・問は問いを学ぶのであり、語句を学ぶのではありません。
    語句を組み替えて、問いをたてることに学問の本質はあると思っています。
    自らの感覚を使って、世界に対して疑問を持ち、自ら問い、そしてそれにこれたる方法を学ぶべきなのだと思います。

    大学教育に携わり、問いをたてるためのアプローチを可能な限り進めていくのですが、初等教育が本質的な学問の部分で成功していない場合は組み立て直しが必要になります。
    教えなくてはいけない語句(どうしても専門的な語句が必要になります)の前に語句の使用方法と並べ替え方、あるいは書き方、表現の仕方を指導する必要があります。
    じっくりと腰を据えてやらなければならないアプローチです。
    そして、そこから問いをたてる方法と問いに答える私自身の姿勢を見せているつもりです。
    いわば、ここに学習デザインの本質があると考えています。

    私は哲学者の鷲田清一からそれを学びました。
    その言葉をぜひお聞きください。

    堀 寛史


    2009年1月27日火曜日

    「カンブリア宮殿」 餃子の王将

    テレビ東京の「カンブリア宮殿」を見ての感想です。
    本日のゲストは餃子の王将の社長でした。
    餃子の王将は関西人の胃袋を支えている外食産業と比喩されることがあります。
    私も大阪に引越してきてから餃子の王将に行く機会が急増しました。
    ちょっと雑多な感じで嫌いだという人もいるとは思いますが、ある時突然食べたくなるのは私だけでしょうか?

    その餃子の王将の経営方針が紹介されていたのですが、簡単に言えば薄利多売なわけです。
    それを徹底的に行い続けることでこの不況を黒字経営で乗り切っていけるようです。
    不況になったからとどこかでコスト削減に踏きり、それを消費者にばれてしまうことで悪循環がおきます。
    餃子の王将はそれをせずにいわば攻め続けることで現在の状態があるといいます。
    また、とにかく数的なものではなく、気持ちだとか、気合いといったものに情熱を注いでいると言います。
    「当たり前のことを高いレベルでやれ」この方針は私たちにも響いてくるのです。
    泥臭く、かっこわるい感じがある、昔からのスポ根精神に私たちは熱を上げるのです。
    餃子の王将はそれを徹底して行っているようでした。

    セラピストとして単純に治療するのではなく、気持ちを込めてぶつかっていく。
    このようなことは専門教育の中、あるいは職場の中でもいつも言われることです。
    しかしながら、わかっていてもなかなかできないですし、究極的に「治せばいいのだろ」と嘯くものもいます。
    私自身もそれに間違いはないと思うのですが、その考えは一職員としての考えだなぁと思うのです。
    自分が責任ある側に移動すると自分が見られている感覚に襲われます。
    それは患者(客)、スタッフ、そしてそこにいる自分自身の他者的な視線に見られているのです。
    そのことに気づき、自分の振る舞いに自信が持てるようになると泥臭いスポ根精神が何となく気持ちよくなってきます。
    私にはまだ足りない部分なのですが、この部分を餃子の王将から十分に学びたいと思いました。

    「当たり前のことを高いレベルで行い」、その上で、自分しかできない技を披露する。
    これが多様化する社会の中で生き残っていく術なのだと思います。
    ぜひ、当たり前のことからはじめてみましょう。

    堀 寛史

    2009年1月26日月曜日

    全国学術研修会in三重

    全国学術研修会in三重のホームページにLD4のバナーが登場しました!
    ぜひ、リンクからご覧下さい。
    ただ、作成者の佐伯の作成したものはもっと手の込んだものでした。
    それがうまく掲載させていただけていないので、近日中にきれいなものに変更されると思います。

    今年はLD4もいろいろな展開を進めていきます。
    その第一弾です。

    近日中に第2弾もお知らせいたしますね。

    堀 寛史

    2009年1月23日金曜日

    再引越しです

    ブログをまた引越ししました。
    livedoorブログのデザインにどうしても納得がいかなくて、いろいろなサイトを探しておりましたところGooglenoブログが一番良いことに気づきました。
    広告も入らずに見やすいレイアウトが可能ですのでこちらに移動させていただきます。

    LD4全体のホームページを含め改訂する方向で考えています。
    より使いやすく、よりわかりやすいサイトを目指してWebデザインを考えていきたいと思います。
    いろいろとご指摘がございましたらどうぞよろしくお願いします。

    堀 寛史

    時間を有効に使うために 倍速再生編

    時間を有効に使うという命題は常々、私たちが望むことだと思います。
    たとえば、一日が30時間あればもっといろいろなことが出来るのにと思い、だからといって睡眠時間を削るのはしんどいですよね。
    私もそれに悩む一人としていろいろなことを試してきました。
    やりかけて失敗した代表は睡眠時間を減らすことです。
    比較的眠りを必要とする人種ですので、8時間近く眠らないと体が動きません。
    以前、15分ずつ眠りを短くしていくように試したのですが失敗しました。
    今回たまたま良さそうな方法を見つけたので紹介します。

    この方法は実行している人も多いのかもしれませんが、倍速で録画した映像を見ることです。
    デジタル化してから速度を上げても画像が乱れず、音声も安定するようになりました。
    特にHDD録画したものはほとんど違和感がありません。
    ニュースなどを見るには倍速の方が手取り早く、より多くの情報を入手できます。
    これまで見るのを躊躇していた「爆問学問」などを見るようになりました。
    本当は「プロフェッショナル」も見たいのですが、妻の予約しているドラマとブッキングするために違う方法を検討中です。

    倍速で録画映像を見る、非常に有効ですよ。
    皆さんもお試し下さい。

    堀 寛史

    第2次補正予算

    政治の話です。
    現在国会で第二次補正予算などについて討論が行われております。
    ある程度、決められた答弁とはいえなかなか面白いものが多いです。
    野党が少しずつ、麻生政権を追い詰めるためのカードを切り始めて、どんどんじり貧になりつつもなかなか腰を折らないのです。
    与党側も何かしらのカードを持っているとは思うのですが、ほんとうに選挙すると言うときまで使わないのでしょう。
    第二次補正予算の強行採決の時にどれだけの造反が出るかが注目なのです。
    与党から17名の造反が出れば強行採決はできません。
    もし、第二次補正予算が通らなければ総選挙しかないでしょう。
    個人的にはぜひ予算が通らないでほしいと思うのです。

    お金の話です。
    よく訳のわからない定額給付金には825億円の事務経費がかかるそうです。
    その内の150億円が振り込み手数料だそうです。
    なんとまぁお粗末な予算の使い方なのでしょう。
    少し前、年金特別便にも多大なる事務経費を使いました。
    無駄遣いにあきれて声が出なくなるときがあります。

    ちなみに2兆円あると何ができるのでしょうか?
    建造物で考えてみますと明石大橋の総工費は5000億円です。
    東京湾アクアラインは1兆5000億円です。
    今回の2兆円で、この二つの工事が可能になります。
    国家の重大プロジェクトを二つ可能なくらいの金額です。
    また、かつてソフトバンクがボーダフォンを買った値段が1兆7500億円くらいだといわれています。
    これまでにない買収劇ですら今回のばらまきの金額以下なのですね。 
    ちなみに日本では生活保護費に毎年約2兆円使用しています。

    税金の話です。
    私たちの税金の使い道は甚だ不明瞭です。
    必要なのは個々人がどれくらいの納税をしており、そのお金がどこに行っているのかを知ることだと思います。
    日本も早く源泉徴収制度をやめて、確定申告をサラリーマンにも徹底すべきだと思います。
    私は数年前から確定申告をしています。
    毎年、この時期になると持って行かれている税金を目の当たりにして少々腹立たしくなります。
    その分、年間どれくらい税金で引かれているのか、社会保障費をどれくらい払っているのかを知っています。
    さらにサラリーマンには経費としてもともと38万円減税されているのですが、それ以上使っているぞと思うのです。
    源泉徴収制度がなくなれば、経費などの見直しや扶養手当などの減税率が変化すると思います。
    国としては非常に楽な制度なのですが、確定申告は税金をしっかりと徴収するためには有効のようです。
    あるいは消費税を50%くらいに上げて、税や社会保障費を一律にする方法もあります。 
    これはある意味全く平等な税金制度といえます。

    とにかく、早い段階で総選挙を期待します。
    みなさんも国民として選挙の投票に行きましょう。
    私がすんでいる地域では1月25日に市議会選挙があります。

    堀 寛史