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    2009年2月27日金曜日

    単位取得退学

    大学院博士後期課程では単位取得退学という退学方法があります。
    簡単に言えば、博士論文を提出することなく大学を去るという形です。
    大学によって多少違いがあるかもしれませんが、博士後期課程で取得しなければならない単位は博士論文をいれて12単位です。
    3年間で12単位という数は、ずいぶん少ないのです。
    学部でしたら4年間で128単位、修士だと2年間で30単位が一般的です。

    博士後期課程は博士論文を書くために在学するためにゼミ単位や授業単位が重要なのではなく、結果的に博士論文がかけることがポイントとなります。
    しかし、この博士論文は所属する研究室や分野によってもずいぶん差があるようです。
    例えば、工学系ですと在学者の50%程度が博士号を取得するのですが、文学系ですと7%しか博士号がとれない現状があります。
    文学系に関して言えば7%でも多くなってきたのです。
    関東の有名私立大学では未だに博士号を出さないそうです。
    私は文化系(哲学)に所属しています。

    私が所属する研究室でも、「博士号よりも重要な学会で発表し、論文掲載されるほうが価値がある」といった考え方もされています。
    かといって博士号を出さないわけではないのです。

    かつて「末は博士か大臣か」と言われた時代があります。
    昔は文字通り大臣になるくらい博士号を取得することが難しかったようです。
    大学で教鞭をふるい、定年し退官するときに、学位(博士号)を授与していたそうです。
    ですので、現在の多くの大学で教授職にある人(文化系)でも博士号を保有していないのはそれが理由です。
    私がこれまで指導を受けてきた教員の中でも博士号を取得していた人はおりません。

    単位取得退学から3年の間に博士論文を提出すれば課程博士なれます。
    博士号には甲と乙があり、課程博士が甲、論文博士が乙です。
    ひとによっては学士、修士を持たなくても博士号を持つ人がいます。
    研究や何かいろいろな実績が評価されて学位が授与されるのです。
    例えば、デューク更家さんなんかがそれです。
    しかし、文科省は今後論文博士をなくす方向です。
    ですので、博士号は今後博士課程に進学したもののみが取得できるようになります。
    つまり、博士といえば甲のみになるのですね。

    私は今年度博士予備論文を提出しました。
    これが合格すると博士論文の執筆が許されます。
    博士論文は12万字程度の論文で、意味がある内容(インパクト)でなければなりません。
    その論文執筆を今後行うのですが、その前に単位取得退学を選択することにしました。
    既定にある3年以内ではなく、今年中にでも執筆できればという想いも強いです。

    博士号は「足の裏の米粒」と呼ばれます。
    とらないときもちわるいけれど、とっても食えない(就職できない)からです。
    しかし、がんばってとろうと思います。
    そのためにしっかり論文を書こうと思います。

    とりとめもない文章で失礼いたしました。

    堀 寛史




    2009年2月23日月曜日

    コミュニケーション

    理学療法士(セラピスト)は対象者とコミュニケーションせずして仕事を遂行することはできません。
    この場合、通常は言語的コミュニケーションを指しているように見えます。
    しかし、実際のところ、身体接触を含んだ身体的コミュニケーションも含んでいます。
    あるいは、目線を合わせること、においもコミュニケーションの構成要素と考えられます。
    単に話し上手であってもダメな理由はコミュニケーションがもつ意味によると思われます。

    私が大学教育に携わってやがて4年になります。
    そこでいくつかの課題が見えてきました。
    その一つが良好なコミュニケーションをとるためにはどうするべきかという問いです。
    先に述べましたように、コミュニケーションは単純に会話であるとは言い切れません。
    特に、セラピストのコミュニケーションは身体接触を含み、善し悪しが複雑化します。
    教育の中では、礼儀や話し方のルールを指導はしますが、あまり身体接触に関して触れることをしてきませんでした。
    例えば、検査手技、治療手技におけるさわり方や触診の方法は行うのですが、良いさわり方についてあまり考えてこなかったのが正直な感想です。
    そこで、現在所属している大学では初年度教育の中に、さわる・さわられるとはどういった感覚なのかを実習の中に取り入れることにしました。
    学生自身がこれまで人に触れてきた経験を一つの常識として披露します。
    しかし、常識として触ってみても心地よいさわり方であったり、痛いさわり方であったり、さまざまなさわり方があります。
    それをさわられる方が感じ、感覚を伝えます。
    この経験は言語的コミュニケーションをうまく行おうとする営みと同じものだと考えます。

    コミュニケーションは難しい、それはセラピストになって10年が経過しても常に立ちはだかる課題です。
    それを少しでも軽減するために早い内からコミュニケーションの機会を与える。
    そして、私たち自身もコミュニケーションについて考え直す。
    大学教育の中でそのような経験をしています。

    さわる・さわられる、この関係性についてもっと考えていけたらと思います。

    堀 寛史

    2009年2月10日火曜日

    iPhoneの功罪

    iPhoneを使用し始めて3ヶ月経過します。
    発売当初からものすごくほしくて、衝動が強すぎて購入しました。
    あれから3ヶ月、現在ではiPhoneの無い生活は考えられません。
    使っている人にしかわからない部分はあると思いますが、一言で良さを伝えるとなると「万能」であることにつきます。
    もちろん、不便な部分も多々あるのですが、それ以上に限りない万能感に満足を得ます。
    PCでできることはある程度こなしますし、PCでできないことを数多くこなします。
    いつも持ち歩くものとしての適度な大きさと何よりもその操作性は携帯電話と呼ぶべきではありません。
    これまで使用してきた他の携帯電話はやはり電話でした。
    しかし、iPhoneは電話付きPCと言うべきで、電話やメール以外の使用が僕にとっては多いのです。
    職場や家でPCを使う頻度が少なくなり、iPhoneでこなすことが増えてきました。
    僕のことをよく知る人であればしょっちゅう画面を拭いている姿を目にするでしょう。
    これは端的に使用頻度が増えて、その分、指紋の付く頻度も増えているのです。
    また、一日に一回はかならず充電しなくてはなりません。
    これは不便なのですが、甘んじて受け入れることができています。

    おそらく今後も他の携帯電話に戻ることはないでしょう。
    進歩していくスマートフォンか次世代のiPhoneの登場がない限りこの機種を使用します。
    ですので、iPhoneのマイナスポイントを上げるとすると他の機種に移れずにAppleの思いのままに操作されてしまっていることだと思います。
    その部分も甘んじて受け入れることができます。

    みなさんも仕事や趣味の幅を広げるためにiPhoneに乗り移りませんか?

    堀 寛史

    2009年2月8日日曜日

    ボディートグス

    ボディートグスを購入しました。
    これは下腿に1kg程度の重りをつけて運動量を増やすダイエット機具です。
    アンクルウエイトのように足首に重りをつける機具は多くあるのですが、この商品は下腿全体を包み込むようにして装着するところのポイントがあります。
    装着の感覚としてアンクルウエイトだと脚が慣性によって振り回されるような感覚があるのですが、それがありません。
    ちょっとした締め付け感はあるのですが、フィット感がよく嫌な感じが少ないです。

    ダイエット機具として売られているのですが、僕としては運動不足解消のために買いました。
    常に、先々のことを考えて生きていこうと心がけており、その一環です。
    夜にウォーキングなどをすればよいのでしょうけれども、無精な部分がありボディートグスという選択をしました。
    付け初めてまだ一週間に満たないので効果についてはお知らせできませんが、何か変化があった場合はまた書いてみたいと思います。

    堀 寛史

    2009年2月1日日曜日

    学ぶことの本質とは

    新聞やテレビのニュースを見ますと小学生の学力の論争が繰り広げられております。
    本日の毎日新聞の「発言席」で教育評論家の小宮山氏が書かれていたデータからの考察は非常に興味深いものでした。
    簡単に概略を述べますと東京の小学生と秋田の小学生の比較です。
    東京の小学生は40%近く私立中学校を受験するために、進学塾に通い、秋田の小学生よりも5倍の勉強時間と10倍の学費を使っている。
    しかし、全国統一学力検査の結果を見ますと成績に大きな差はない。
    そのような内容でした。
    私の解釈では、意味のない学習が繰り広げられ、単に経済的な意義のための小学生は犠牲になっていると考えます。

    親としては高額の授業料を支払うので、成績が上がってしかるべきと考えます。
    小学生も自分の時間を割いて勉強しているのだから志望校に進学できてしかるべきだと考えます。
    進学塾は適切な方法論をとっているので、成績が上がってしかるべきだと考えます。
    しかし、結果は常に付いてくることはないのです。
    総合的には悪循環がここにはあり、誰もが苦しんでいるのです。

    小学生に必要なのは問いをたてる方法を教えることだと思います。
    学・問は問いを学ぶのであり、語句を学ぶのではありません。
    語句を組み替えて、問いをたてることに学問の本質はあると思っています。
    自らの感覚を使って、世界に対して疑問を持ち、自ら問い、そしてそれにこれたる方法を学ぶべきなのだと思います。

    大学教育に携わり、問いをたてるためのアプローチを可能な限り進めていくのですが、初等教育が本質的な学問の部分で成功していない場合は組み立て直しが必要になります。
    教えなくてはいけない語句(どうしても専門的な語句が必要になります)の前に語句の使用方法と並べ替え方、あるいは書き方、表現の仕方を指導する必要があります。
    じっくりと腰を据えてやらなければならないアプローチです。
    そして、そこから問いをたてる方法と問いに答える私自身の姿勢を見せているつもりです。
    いわば、ここに学習デザインの本質があると考えています。

    私は哲学者の鷲田清一からそれを学びました。
    その言葉をぜひお聞きください。

    堀 寛史