大学教員をしていますとある学生の1~4年間の変化を追うことができます。
3月に卒業生を出し、4月に入学者を受け入れるわけですが、でるものとはいるものの違い、主に何について成長したのだろうかを考えさせられます。
昨日、1年生の新人歓迎会を学科で行いました。
学科教員も大半が出席し、お互いの認識を広めようと交流したのです。
そこで、毎年どの教員も口をそろえて新入生の態度について苦言を呈します。
端的に「なっていない」と。
そして、医療職はこんな態度ではいけないという伝家の宝刀を抜きます。
毎年恒例の事件であると思うのです。
この新人歓迎会の前日に2年生の授業を行っていた僕は2年生に対して「態度が良くなったね」という話をしたばかりでした。
1年間の成長を十分に感じるほど人の話を聴き、敬語を話し、表情が良くなったと。
社会一般では、当たり前と思われるようなことなのですが、実のところなかなか簡単にできないものなのです。
そして、教育の場ではそれを見逃してはいけないのですし、時には苦言を呈しながらも指導しなくてはならないのです。
その結果が2年生の態度であったと思います。
面白いもので、1年生の対応のために3年生を呼んで話をしてもらったのですが、話をした3年生も教員と同じように態度がなっていないといいます。
教員からすれば、君らもなっていなかったよと笑い話として3年生と話しました。
さらに、僕自身の過去を知る人がいれば、君こそなってなかったよと言われるのだと思います。
過去の自分の態度をわざわざ顧みる必要はないのですが、人は成長する(正確には社会に適用する
)のだということがわかった気がします。
社会において、不快な態度をとらないことは関係性におけるリスク管理であるといえます。
また、態度を悪くすると言うことの裏には甘えがあるのです。
つまり、このような態度をとっても許してもらえるという期待です。
社会はその期待を裏切ってくれます。
そのことを教育の現場では教えてあげなければいけません(教育の場ではなく大人が見本を見せるという地域的なところでも同様のことが言えるでしょう)。
僕の場合は子どもの教育においてもヒエラルキーをハッキリとさせ、親に対して敬語を話すように指導します。
厳しいと思われるかもしれませんが、社会に出るときにそれができるできないで子どもの人生が左右されるのです。
子どものことをほんとうに愛しているのならばルールを教え、できるようにしてあげなければならないのです。
それを広げて、学生を愛しているのならば、社会に出られるような姿にしてあげなければならないのです。
それが教員にとっての重要な仕事だと思います。
今の1年生が数年後に「今回の1年生はなってないなぁ」と嘯く日が楽しみです。
堀 寛史