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    2009年7月7日火曜日

    幸福論

    授業で2回生に幸福について尋ねました。
    幸福とは何か、あなたは今、幸福か?
    少々哲学的な問いかもしれませんが、その答えが楽しみで聞いた見たのです。
    そこで帰ってきた回答に興味をそそられました。
    「普通が幸せ」、「今のままで十分」、あるいは多くの学生が「今幸せ」だと答えました。
    この回答に正直驚きました。
    自分自身の学生時代を振り返り、もちろん今もそうですが、常に幸福とは何かを問い、それを追い求めていると思っています。
    メーテルリンクの『青い鳥』の結論にいたるまでもなく、幸福には答えは出せないものだという感覚的な回答も持ってはいます。
    しかし、今十分幸せだという感覚ならば、僕が発した問いはそもそも彼らにとって問いにならないことといえます。

    数名は少し不幸だと答えました。
    その理由を聞いてみたら「前に授業で怒られたから」だと答えました。
    これにも驚きました。
    全体的に物語がないからです。
    もちろんきちんと彼らと話せばそれなりの物語があるのはわかっていますが、何となく時間軸が違うのかなぁと思いました。

    また、彼らの普段の行動を逆手にとって考えてみると、例えば髪型や服装や態度は世間に対する反抗であり、直接的な目的は異性の意識を引くことであると思われます。
    彼らの格好や態度に現状に対する評価や可能性を見いだしてほしいというメッセージがあるのだと思うのですが、幸福な状態でそれは必要なのでしょうか?
    彼らにそう問うてみたところ、回答に苦慮していました。
    誰かがやっているからそのように装い、そのように行為する、これが彼らの価値観なのでしょうか?
    もしそうだとすると僕にとって彼らの存在意義は不幸であると見えるのです。

    実際に、現代社会は意味がわからない犯罪が増え、交通事故の6倍くらいの人が自殺します。
    不安定、不透明な社会であり、それは不安を惹起します。
    20世紀初頭は「不安の時代」と呼ばれます。
    それとは現状が違いますが、現代が「幸福の時代」であるとは言うには不十分な気がします。
    しかし、多くの学生が「幸福である」と答えるにはそれなりの理由はあるのでしょう。
    その部分が僕自身には十分つかみ取れない、それがジェネレーションギャップだと言われてしまうとつらいのですが、哲学をやっているものとして解釈に困るのは悔しいのです。

    先日、鷲田清一著『死なないでいる理由』を読みました。
    その中で、幸せとは、幸せのことを考えていないときであると述べていました。
    これは、少なからず幸せについて考えるときは現状に不幸なことがあり、こうなったらいいなぁと願望することなので、その時点では幸せであるといえないとした、逆説的な定義です。
    僕はこの定義が非常にすっきり入ってくるのですが、今日彼らの意見を聞いてみて、確かにそうであるが、幸せを熟慮した人にこそ、この定義はしっかりと当てはまるのではないかと思うのです。
    いろいろあったけど、そのときに比べるとずっといい、そんな感覚が欠落してしまうと、相対的な幸福論は根底から覆るような気がします。
    もちろん彼らの幸福論は絶対的な幸福論なのかもしれません。
    現状が安定しているのだから、無理矢理不安定にする必要はないのだと。
    心理学で言うアトラクターの理論からも確かに安定している状態は少なからず幸福なのですが、安定は長く続くとはかぎりません。
    不安定に対する対策を十分に立ているから安定が保たれるのです。
    現状の満足は準備を怠らせてしまう。
    そのように思うのです。

    長くなりましたが、結論を言えば、幅広く幸福論を展開しておくことで、他者の理解が広がると考えるのです。
    じっと静まっておく人も幸福であり、常に動いている人も幸福である。
    そう考える思考の広さが必要なのだと思います。
    僕自身、彼らの幸福論を十分消化できていないと言うことは、十分な幸福論にいたっていないのでしょうね。
    その意味では彼らとの対話に僕自身にとっては十分な意味があったのだと思います。
    とはいえ、まだ、消化不良です・・・・。

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