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    2009年12月31日木曜日

    総括

    この時期はいつも一年を振り返ります。
    おそらく誰もがそうするのでしょうけれども僕の場合は結構しっかり行います。
    毎年モレスキン(モールスキン)に書き込むのですが10頁以上書き込みます。
    1月から色々なことを思い出しながら書くのです一年近く前というのはなかなか思い出せないものです。
    光陰矢の如しと表現し時間の過ぎ行く早さに驚くことが多いのですが、きちんとエピソードを追ってみると意外に多くのことが一年で起きています。
    僕にとってこの物語る行為が人生に大きな意味を占めています。
    記録を残すというよりは思い出す、反省するに近いと思います。
    フッサールは『デカルト的省察』最後にアウグスティヌスを引用します。
    「外にばかりでて行こうとするな。答えは汝の中にある」(正確ではないです)
    この言葉を僕自身も信じています。
    アプリオリ主義と言われるかもしれませんが重要な教訓です。
    このことを信じて来年も突き進みたいと思います。
    そして時折物語りながら反省しようと思います。

    今年もお世話になりました。
    来年もどうぞよろしくお願いもうしあげます。

    2009年12月28日月曜日

    斬新なしりとり

    娘が3歳になりました。
    今日はその誕生日だったのですが、朝、目が覚めた僕の枕元にきて笑顔で「しりとりしよう」と呼びかけてきました。
    少しずつボキャブラリーが豊富になり、なんとなく物事がわかってきた娘はいろいろなことに興味があるようです。
    しりとりの前に、誕生日おめでとうと伝え、早速勝負開始です。

    僕が「りんご」というと娘も「りんご」といいます。
    「りんごだからごだよ」といい、「ゴリラなんかどう」とアイデアを伝えます。
    すると娘は「ゴリラ」と言います。
    そして僕が「らくだ」といい、次は「だだよ」といいます。
    そこで娘は「しらんわー」といって、言葉を諦めます。
    なかなかあり得ない回答に家族で大笑いします。

    この「しらんわー」はまだ言葉がよくわかっていない娘が言うので面白いのですが、しりとりの際に知らないという選択肢があることを僕はしりませんでした。
    娘の頭の中は知らないことばかりで、その反面でいろいろなことに興味があります。
    いろいろなものをさわり、とりあえず訳もわからない単語を使い、日々の学習にいそしんでいます。
    会話においては考えるよりも反応として返ってくるようなものが多いです。
    一旦考えて、答えるという受け答えではなく、ツーといったらカーという感じの受け答えです。
    娘の頭の中で何が起きているのか、娘が観ているものはなんなのか非常に興味があるところです。

    「しらんわー」という言葉が持つ意味は「知らない」なのであり、それが何なのかわからないということです。
    娘は「しらんわー」の意味を十分にわかっていないまま使用していると思います。
    つまり、知らないということ自体を知らないのです。
    なんだかそれは非常に奥深い状態なのだと思いました。
    ソクラテスは「私は何も知らないことを知っている」といい、唯一知っていることは知らないであると言いました。
    しかし、娘は「知らないを知らない」のです。
    この二重否定の状態はは前・哲学の状態であり、おそらくそこに僕らが立ち返れない場所なのだと思います。
    数学的にはマイナスとマイナスを掛け合わせた状態になります。
    そのように考えると純然たるプラスの状況なのかもしれません。

    娘が今いる場所はすごく素敵な場所であり、すべてが正直で、すべてが美しいのだろうなぁと思います。
    これから言語を習得して経験が物語り化されてきます。
    それ以前の記憶は僕らにはハッキリと思い出せないものですので、この前・哲学の状態をしっかりと楽しんでもらいたいと思います。

    父は3歳になってくれたことをこころから幸せに思っています。

    2009年12月20日日曜日

    サンタクロース存在論

    我が家では息子がもの後ごろついた頃からサンタクロースなどいない、あれはお父さんがやっているのだと言うことを伝えています。
    お父さんが仕事して稼いだお金で、普段、家を空けるなどしてあそんであげれない分、子ども達に商品として還元する日なのだと。
    世の中、そんなに都合は良くできていない、まじめに働きなさいと言うメッセージを込めています。

    そんな息子はもうすぐ6歳になるのですが、どうやら本気にサンタクロースの存在を信じているようです。
    確かにお父さんはプレゼントをくれるのだが、別にサンタクロースはいるのではないかという考えのようです。
    それは友達からなどの情報を統合した結果出された彼なりの解釈であるようです。
    プレゼントをくれるとか、くれないとか言った打算的な部分ではなく、単に存在論として彼の中で解釈は進んでいるようなのです。
    これは逆説的に非常にファンタージーなことだと僕は思っています。
    存在を否定すれば、逆にそれを信じることになるのだと。
    また、それとは別に存在を無条件に信じている子ども達はいつか親が嘘をつき続けたことに反発を覚えます。
    夢が終わるという表現をされますが、そんな簡単なものではなく、だまされたのだと思う人もいるでしょう。
    僕の息子の場合は、自分の力でその存在を信じています。
    だますとかだまされるという状況ではなく、個人の解釈でサンタクロースの存在を確立しようとしているのです。
    これについての考察はまだ不十分なのですが、とても不思議な気分になり、僕もどこかサンタクロースの存在を肯定したくなるような気がしてきました。
    つまり、主観的に信じるという認識は存在を作り上げるのです。
    それは真実として、現実として「いる」という存在ではなく、誰かがどこかで見ているという超自我的な存在論に近いと思います。
    息子の超自我はすくすくと育っているようです。

    ガガーリンが人類としてはじめて宇宙に行き、地球に帰還した際にソ連の当時の書記長から電話があり「宇宙に神がいたことは誰にも言わないで欲しい」と依頼されました。
    そして、電話を切ったらすぐにローマ法王から電話があり「宇宙に神がいなかったことを誰にも言わないで欲しい」と依頼されました。
    そんなジョークがあります。
    これは信じるようにという他者的な信仰が持つ逆説を付いたジョークだと思います。
    しかし、自ずから超自我的に作り上げた存在に疑いを持つ必要はあまりないと思います。
    つまり、感じる何かとして信じるのです。

    息子のエピソードをきっかけに何か大切なことを学んだ気がします。

    2009年12月9日水曜日

    突然の電話

    先日、夜に携帯電話のバイブレーションがテーブルの上を振動させました。
    知らない番号で、夜11時だったので、おそらく間違いだろうと思って無視しました。
    妻から普段無視しないのに珍しいね、高校時代の友達からだよと冗談交じりで言われました。
    そして、今日、営業中に同じ番号から電話があり、それも仕事中ということで無視しました。
    外回りで忙しくてかけ直す暇が無く、やっと時間ができて晩ご飯を食べようと京都の第一旭に立ち寄りました。
    するとまた電話がありました。
    急いで出たら、思わず「拒否」の方を押してしまい、すぐにかけ直しました。
    全く誰からかわからないけれど、3度もかけてくると言うことは間違いなく僕への用事だと思い、失礼なことをしたと思いました。

    電話の相手は高校を卒業してから音信不通だったラグビー部の同期でした。
    非常にびっくりして、ラーメン屋の中で小声だった声が大きく弾みました。
    東京の大学に進学して、家業を継ぐために実家である北九州に戻ったと話していました。
    そこでたまたま僕の実家の前を通って、僕の母親に会い、懐かしくなって電話をかけてくれたと言うことでした。
    卒業してからもう13年、憶えてくれていたこともうれしいし、アクセスしてくれたこともうれしかったです。
    実家に返った際はぜひ飲もうという話になりました。
    実際のところ僕はお酒は飲めないので、コーラでお伴することになります。

    家に帰って妻にことことを話したら、ほら高校時代の友達だったといわれました。
    何か神通力があるのでしょうか?
    なんともよくわからないのですが、当てずっぽうでも当たると気色の悪いものです。

    何はともあれ、何ともうれしい友からの連絡でした。
    これからは知らない番号でもすぐに出た方がよいですね。
    間違いなくそうします。

    2009年12月3日木曜日

    『約束された場所で―underground 2』を読んで

    村上春樹のことをこころから尊敬するようになったきっかけは『アンダーグラウンド』を読んだことによります。
    小説家のことをどこか社会から逸脱した人と捉えていたのですが、それは全く逆で社会に真正面からコミットする、それが真の姿なのだと思いました。

    村上春樹の作品は小説であればすべて読みました。
    しかし、『約束された場所で―underground 2』の存在を知らずに、たまたま本屋で見つけてすぐに買いました。
    この作品は小説ではないのですが、先に述べましたように前作に衝撃を受けたのできちんと読まなければなりません。

    ところで、『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた本です。
    そして『約束された場所で―underground 2』はオウム真理教の信者へのインタビューをまとめた本です。
    あの事件からやがて15年が経とうとしています。
    僕が高校2年の時であり、友人達とオウム真理教についていろいろ話し合ったことを覚えています。
    911以降テロリズムを耳にすることは多くなったのですが、それ以前はなかなかテロリズムは僕たちと生活にない言葉でした。
    これから社会について少しずつ足を踏み入れようとしていた高校2年生のときに、かなりの衝撃を受け、あのテロリズムはいったい何だったのだろうと真剣に考えさせられました。
    ただし、何かしらの回答が出たわけでもなく、マスコミが飽きてくると同様に僕の意識からもそれは薄れていきました。

    事件から10年以上が経って、たまたま見つけて読んでみたのが『アンダーグラウンド』でした。
    いやに分厚い本だなぁと言う印象しか持たなかったのですが、読んでみて僕の中に「罪と罰」というテーマが生まれてきたのをハッキリと覚えています。
    『アンダーグラウンド』を読む前年に、ドストエフスキーの『罪と罰』を半分で断念していました。
    しかし、『アンダーグラウンド』を読んですぐに、『罪と罰』を改めて読み直し、重ねて重要なテーマであるという認識をしました。
    そのテーマは今でも継続して考えています。
    そして、今回、『約束された場所で―underground 2』を読んで、まだ深く掘り下げて考える必要性が立ち現れてきました。
    この本の中では「罪と罰」というとらえ方は言葉上ありません。
    村上春樹にとっての重要なテーマはは「悪」の問題です。
    たまたまなのですが、僕が研究しているポール・リクールのテーマも「悪」です。
    すべからく、僕にとっても重要なテーマなのですが、今回の読書で少し何かが見えたような気がします。
    「悪」、「罪と罰」これらはきちんとまとめないといけないと思います。

    高校生の時に受けた衝撃を現実的には思い出せないのですが、それからの物語りをなんとなく構成できています。
    無理矢理なこじつけかもしれませんが、オウムの事件の数々は、今の僕の考えの一つのきっかけになっていると思います。
    そんなこんなを思い出しました。