デカルトの心身ニ元論について論考するつもりは無いのですが、メンタルとフィジカルというものが2つにわけられるとしたら今僕が感じていることは確かなことだと思います。
33歳を節目に運動をしなければと思っていました。
何をすべき何のかはわかっていなかったのですが、それは仕向けられました。
最近、村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで、僕は走るべきなのだと感じたのです。
村上春樹氏も33歳から走り始められたそうです。
それに共感し、妻と夜、短い距離ですが走り始めました。
気持ちを高めるために新しい運動靴を買い、カロリー消費を助けるというパンツも買いました。
一旦走り始めると体がそれを求め、たくさんはできなくとも動けと僕に命令してきます。
10代の頃を考えるとメンタルよりもフィジカルのほうが強くて、体力で乗り切ることが多かったとおもいます。
20代のことはフィジカルのほうが強いとメンタルが思い込んで、生活し、しかし、確かにそれで乗り切れていました。
30代になり、ある程度の精神力が養われ、いろいろな事にストレスを感じにくくなり、自分自身が何となく強くなった感じを覚えていました。
確かにメンタルは強くなったのですが、目に見えてフィジカルが弱くなったのです。
30を股越してから毎年夏時期になると体調をくずします。
症状の大きさはいろいろですが、昨年の首の症状は人生ではじめて死を感じるほどでした。
今年も精神的な疲れが取れにくく、何となく不安な日々をおくっていました。
これは完全にフィジカルが弱くなっているためであり、メンタルはそれをひた隠しにしようと画策していました。
メンタルを説得しフィジカルに問いかけてみるとやはり弱さを認めました。
フィジカルはメンタルのせいにはしませんでしたが、状況はあまりよいものであるとは言えませんでした。
お互いの調和と取るために僕は走るべきなのだと考えたのです。
これまでうちに引篭もりがちの僕はメンタルにだけ話しかけ、対話を持ちかけていました。
思索ふけるように少々格好付ながらそうしていました。
しかし、走り出してからフィジカルの声が僕に届くようになりました。
フィジカルの声の何と素直な事でしょう!
僕にはそれが新鮮でたまりません。
フィジカルは欲しい、まだいける、もうダメだ、そのようなボキャブラリーしかもちません。
まだいけるという時には体の使い方の変化を指導してきたり、エネルギー効率を考えた方法に切り替えるように方法で訴えてきます。
全身の感覚器と運動器を総動員させてせわしなく語りかけてきます。
これまでこの声をどこか無視して、もうダメという時にしか答えていませんでした。
あるいは欲しいという欲求にだけ、メンタルで不愉快さを覚えながら対応していました。
彼らはこれまでもまだいけるということを僕に訴えていたのかもしれないと今頃になって気づき始めました。
大人になったということなのかもしれませんが、素直なフィジカルな声をきちんと聞くべきだったのです。
きっとこれまでも僕のためにまだいけると彼らは適切に情報をくれ、いろいろな部分を総動員してくれていたのです。
今はこの声に耳を傾けることを憶えた僕は人生の幅が少し広がったような気分になりました。
そして、メンタルもフィジカルの声に一目をおき、共存をはじめています。
これもいい傾向です。
この共存の結果、手厳しいメンタルがいついつ走るのか問うことをしません。
君が走りたい時に走れば良いと言ってくれているのです。
これは僕にとって結構珍しいことなのです。
メンタルもフィジカルも疲れ、そして、存在そのものがなかったのではないかという位ぐっすり眠りたいとおもいます。
それは結構僕にとって幸せな感覚です。
汗をかき、その汗の為に水を飲む。
これを繰り返す術をやっと理解したような気がします。
これが人間の本質なのだと今は思っています。
